結婚して十数年、家族のために尽くしてきた日々。夫との会話は必要最低限になり、子どもたちも成長し、ふとした瞬間に心がぽっかりと空いていることに気づきました。「誰かに必要とされたい」「女性として見られたい」と感じる自分に、戸惑いや罪悪感を覚えつつも、その気持ちは確かに存在しています。そんなときに出会ったのが、“触れない恋”であるプラトニックラブという形でした。この記事では、心だけでつながる関係がどのように私の内面を満たし、人生に彩りを与えてくれたのかを綴ります。
「誰かに必要とされたい」気持ちが消せなかった私
「私はもう誰かに必要とされていないのかもしれない」――そんな思いが、ある晩ひとりきりのリビングでふと心をよぎりました。家族のなかでの役割を果たす毎日で、自分という存在が“誰かにとって特別”である実感がどこかに消えてしまったのです。
家庭での役割と“私”のズレ
「私はもう誰かに必要とされていないのかもしれない」――そんな思いが、ある晩ひとりきりのリビングでふと心をよぎりました。家族のなかでの役割を果たす毎日で、自分という存在が“誰かにとって特別”である実感がどこかに消えてしまったのです。
結婚してから約15年。子育てにもある程度の区切りがつき、仕事や家事にも慣れた頃、私は一人の人間としての“揺らぎ”を感じ始めていました。夫との関係は平穏ですが、恋愛感情というよりは同居人のような距離感。会話も必要なことだけになり、私の存在は「妻」や「母」という肩書きのなかに閉じ込められているような感覚でした。
無意識に求めていた承認と居場所
ある日、夫が仕事の打ち上げで深夜帰宅したとき、「お疲れさま」と声をかけた私に、彼はスマホを見たままうなずいただけでした。その何気ないやりとりのなかで、私は深い孤独を感じました。「私がここにいてもいなくても変わらないのでは?」という思いが心に沈殿していくのがわかりました。
そのとき、頭をよぎったのが「誰かに必要とされたい」という気持ちでした。それは決して特別な欲望ではなく、人として当たり前の感情なのだと思います。でも、家庭を持つ身として、そんなふうに感じる自分にどこか後ろめたさを覚えてしまうのも事実でした。
心の居場所を探していた私は、ある日SNSの投稿で「プラトニックラブ」という言葉に出会いました。身体的な関係を持たず、心だけでつながる恋愛。そのコンセプトに、どこか救われたような気持ちになったのです。肉体的な接触がないからこそ、純粋に「自分という人間」が求められるのではないか。そんな淡い期待が芽生えた瞬間でした。
女性として見られることの意味とは

いつしか「女らしさ」や「ときめき」から遠ざかっていた自分。けれど、外の世界でふとしたやりとりに心が動くとき、私の中にまだ“女性”としての感性が生きていることに気づかされました。
「母」でも「妻」でもなく、「一人の女性」として
いつしか「女らしさ」や「ときめき」から遠ざかっていた自分。けれど、外の世界でふとしたやりとりに心が動くとき、私の中にまだ“女性”としての感性が生きていることに気づかされました。
子どもが小さい頃は、日々の忙しさのなかで自分の容姿や感情に気を配る余裕はほとんどありませんでした。ノーメイクでコンビニに行くことも当たり前で、服も機能性重視。鏡に映る自分を見て、「もう私は“女性”ではなくなったのかもしれない」と思うようになっていました。
外の世界に感じた小さなときめき
ところが、ある日カフェで隣り合った年下の男性に「そのストール、すごく似合ってますね」と声をかけられたとき、胸の奥がじんわりと温かくなる感覚を覚えたのです。軽い世間話にすぎないその言葉が、なぜかとても心に残りました。
それは、自分が“誰かに見られている”という感覚を久しぶりに味わったからかもしれません。「母」でも「妻」でもなく、「一人の女性」として扱われることで、忘れていた自分自身を思い出すような、そんな気持ちになりました。
恋愛感情が芽生えたわけではありません。でも、そのささやかな交流がきっかけとなり、私は「もう一度、自分を大切にしたい」と思うようになったのです。髪を整え、久しぶりにお気に入りの口紅を引いたとき、鏡のなかの私はどこか生き生きして見えました。
女性として見られることは、単に外見を褒められることではありません。内面も含めて「あなたがここにいる意味がある」と感じさせてくれる関係こそが、心を潤すのだと思います。
プラトニックラブという関係性にたどり着くまで

誰かに求められたいけれど、身体の関係には踏み込みたくない。そんな矛盾するような気持ちを抱えたまま出会ったのが、プラトニックラブという選択肢でした。そこには、心だけで深くつながる安心感がありました。
「体の関係がない恋」への安心感
誰かに求められたいけれど、身体の関係には踏み込みたくない。そんな矛盾するような気持ちを抱えたまま出会ったのが、プラトニックラブという選択肢でした。そこには、心だけで深くつながる安心感がありました。
プラトニックラブに興味を持ち始めた頃、私は同じような価値観を持つ人とつながれるアプリ『アフタヌーン』を見つけました。「心だけの関係」「肉体関係なし」という明確なルールに、強く惹かれました。
最初は半信半疑でメッセージのやりとりを始めましたが、お互いの価値観や生活について語り合うなかで、「こんなにも心が満たされる会話があるのか」と驚きました。ある男性とのやりとりでは、仕事の悩みや家庭での立場の話など、どんな話題でも安心して話せる空気がありました。
会話や共感で深まる特別な絆
相手も同じように、「誰かと心でつながりたい」という思いを抱えていたことがわかり、次第に言葉に重みが出てきたように感じました。会話を通して、「あなたのことをもっと知りたい」と自然に思えるようになったのです。
この関係には、恋愛のような駆け引きもなく、身体的な欲求も絡みません。ただ、お互いを尊重し、思いやりを持って心を交わす。そのことが、これまでどれだけ自分の心を飢えさせていたかに気づかせてくれました。
プラトニックラブが与えてくれたもの

体を求められることも、愛していると口に出すこともない関係なのに、心の深い部分でつながっている――そんなプラトニックな絆は、私に多くの“変化”をもたらしてくれました。
自己肯定感の回復
体を求められることも、愛していると口に出すこともない関係なのに、心の深い部分でつながっている――そんなプラトニックな絆は、私に多くの“変化”をもたらしてくれました。
プラトニックラブのなかで最も大きかったのは、「私ってこんなに話すことが好きだったんだ」という気づきです。家庭では言えない些細な愚痴や、ちょっとした感動を共有できる相手がいることで、気持ちがとても軽くなるのを実感しました。
「また笑えるようになった」日常の変化
ある日、「今日は久しぶりに紅葉を見に行ったよ」とメッセージを送ると、「それは素敵ですね。〇〇さんの言葉から風景が目に浮かびます」と返ってきました。その一言がとても嬉しく、涙が出そうになったのを今でも覚えています。
そんなやりとりが続くなかで、私は少しずつ自信を取り戻していきました。「話を聞いてくれる人がいる」「ありのままの自分でいい」と思えるだけで、心はこんなにも穏やかになるのだと感じたのです。
自己肯定感が高まったことで、家庭でのふるまいにも変化が出てきました。笑顔が増え、夫や子どもたちとの会話も少しずつ増えていきました。誰かに支えられていると感じられることで、自分自身もまた誰かを支えられる余裕が生まれたのだと思います。
まとめ:誰かと心でつながることで、女性としての自分を取り戻す

「誰かに必要とされたい」「女性として見られたい」という気持ちは、決してわがままでも、後ろめたいものでもありません。むしろ、それは人として自然で正直な感情なのだと思います。
プラトニックラブという関係は、身体的なつながりのない分だけ、心の機微に敏感になります。ちょっとした言葉や気遣い、共感が、思いのほか心を癒やしてくれるのです。恋人でもなく、友達以上の関係。それは、誰かと心で深くつながることの価値を再確認させてくれるものでした。
今、私は以前よりも穏やかな気持ちで毎日を過ごせています。特別な誰かと交わす言葉のなかで、自分の“存在”を再確認できたこと。それが何よりの救いでした。
同じように、心の居場所を探している方がいれば、『アフタヌーン』のようなプラトニックな出会いを提供してくれる場をのぞいてみるのも、一つの方法です。あなたの心を理解してくれる誰かが、きっとどこかにいます。