前回、私は、離れてしまった夫との関係を何とか取り戻そうと奮闘しました。
もっと話をしよう。
家族で過ごす時間を増やそう。
そう思って何度も夫に話しかけましたが、何をしても空回りするばかり。
いつしか私は、「誰かに話を聞いてほしい」「ただ、私の気持ちをわかってほしい」と思うようになっていました。
そんなある日のことです。
「はあ、もうしんどいな」

ある日の昼休みのこと。
いつもなら同僚とお昼を食べたり、他愛もない話をしたりして過ごしているのですが、その日は誰かと話す気持ちにはなれず、外で1人でコーヒーを飲んでいました。
自分が頑張ってもどうにもならないことを、頭の中でぐるぐる考え続けていたからです。
「はあ、もうしんどいな……」
「どうかしたんですか?」
思わず、心の声が漏れ出ていたみたいです。声をかけられて顔を上げると、後輩の仲本君がいました。昼休みを終えて、会社に戻るところだったようです。
恥ずかしいところを見られた羞恥心から、私はとっさに顔をそむけました。
できれば、今は誰にも話しかけられたくない。そう思って、その場から逃げようとしました。
すると、「僕でよければ、話聞きますよ」と言われ、思わず足を止めてしまいました。

本当は、誰かに「話して」と言ってほしかった
「大丈夫、大丈夫」そう言うつもりでした。
いつものように何でもない顔をして、笑ってごまかそうと思いました。
だけど、その時だけはできませんでした。
今思えば、私はずっと誰かにそう言ってほしかったのだと思います。
「話聞くよ」
「どうしたの?」
「何かあった?」
そんなふうに、自分の気持ちに気づいてもらいたかった。
私は、仲本君に向かって、「こんな話するのもどうかと思うんだけど……」と、少しずつ話し始めました。
最初は何から話そう、どこまで話そうかと言葉を選んでいましたが、話し始めると夫との距離が離れてしまったことや、夫婦関係を修復しようと思ったけどもう遅かったことなど、自分でも驚くほど次々と言葉が出てきました。
こんなに誰かに話したかったんだ。
そう思いました。
仲本君は途中で口を挟むことなく、ただ黙って私の話を聞いてくれました。
あまりにも何も言わないので、私はだんだん「どう思っているんだろう?やっぱり重い話で困ったよね」と、不安になってきました。誰だって、突然会社の同僚からこんなプライベートな重い話を聞かされれば、困ると思います。
恐る恐る仲本君の顔を見ると、「めちゃくちゃしんどいじゃないですか。もっと早く話してくれたらよかったのに」と言ってくれました。
その瞬間、涙が込み上げてきました。
「私がわがままなんだ」と言い聞かせていた
泣きそうになったことが恥ずかしくて、私は慌てて言いました。
「いやいや、だって夫婦間の話なんて重いだろうし。それに、みんな子どもができたらこんなものだって言ってるし。私がわがままなだけよ」
夫婦なんだから、子どももいるんだから、これくらい我慢しなきゃ。
もっと大変な人だっている。私だけが不満を言うのは、わがままだ。
そうやって、ずっと自分に言い聞かせてきたのです。
実際、贅沢な悩みだと言われたこともあります。ですが、仲本君は違っていました。
「他の人のことは知らないですけど、現に鈴木さんは悩んでるんじゃないですか。僕はわがままだなんて思いません。むしろ、家族のことを大事に考えられる方なんだなって思いました。
正直、パートナーの愚痴ばっかり話す人が多くて、結婚って幸せじゃないんだな。結婚したら人ってそんな風になっちゃうんだーって思っていたんで、鈴木さんの考えが聞けて嬉しいです」
仲本君の笑顔が、眩しく感じられました。こんなふうに自分の気持ちを受け止めてもらえたのは、いつぶりでしょうか。
これまでは、夫とのちょっとしたことを話しても、既婚者からは「そんなものだよ」と言われるだけ。未婚の友達からは、「悩めるパートナーがいるだけで幸せだよ」と言われ、悩みを相談することができませんでした。
だからこそ、仲本君の言葉は私の胸の内側まで沁みわたっていきました。
「すみません、悩んでいる人に、嬉しいなんて不謹慎ですよね。僕でよかったらいつでも話聞きますよ。よかったら、明日ランチしますか?」
話を聞いてくれる大きな存在

それから、仲本君に愚痴を聞いてもらうことが日常になりました。
仲本君は、頭ごなしに否定することも、面倒そうな顔をすることもなく、いつも真剣な顔で私の話を聞いてくれました。
自分のことのように聞いてくれるのが嬉しくて、私はそれまで誰にも話せなかったことまで、少しずつ話すようになっていきました。
「本当むかつく!って、ごめん、もう戻らないとだね。いつも私ばっかり聞いてもらってごめんね」
「いいえ、なんていうか僕愚痴聞くのそんなに得意じゃないですし、職場の他の人とかが話していると、また言ってるわーとか思うんですけど、鈴木さんの話は聞けちゃうんですよね。なんででしょうね」
その言葉を聞いて、私は少し笑いました。
5つほど年の離れた仲本君。彼の言葉は、少年のように無邪気でした。
彼の前では、頑張りすぎなくてもいい。肩ひじを張らなくてもいい。そんなふうに思えたのです。
そして私は、いつの間にか仲本君に「ねえ、聞いてよー」と、気軽に話しかけるようになっていました。
ランチの1時間では、話し足りなくなっていた
最初のうちは、昼休みまで我慢していました。でも、毎日たった1時間しかありません。話したいことを全部話すには、短すぎました。
あれも聞いてほしい。これも話したかった!そんなふうに思うことが増えていきました。
気づけば私は、朝や仕事終わりにも仲本君を見つけては、話しかけるようになっていました。
今、冷静に振り返れば、本当に迷惑な奴だったと思います。
それでも、仲本君は嫌な顔一つしませんでした。私が話したいときは、ちゃんと話を聞いてくれて、彼の優しさには感謝しかありません。
「2人、最近仲良すぎない?」

ある日、いつものように仲本君と2人でランチに出ようとしたときのことです。
「2人、最近仲良すぎない?怪しいー」そう言われました。
私は笑って、「何言ってるのよ。私の愚痴聞き担当になってもらってるだけよー」と返しました。
ただからかわれているだけだと思ったので、重く受け止めないように冗談めかして話しました。
実際、何もとやかく言われるようなことはしていません。ただ、話を聞いてもらっているだけ。ランチを一緒に食べているだけなのですから。
でも、外に出ようとしたとき、妙な視線を感じました。見ると、声をかけてきた人だけではありません。部署内の何人かが、こちらをちらちらと見ているのがわかりました。
その中には、「やっぱり」と笑い合っている男性社員もいました。
その瞬間。私は初めて、自分と仲本君との距離を意識しました。
私は、ただ話を聞いてほしかっただけ
私は、ただ自分の話を聞いてくれる人がほしかっただけです。だから、いつも優しく、否定せずに聞いてくれる仲本君に甘えていただけ。
そう思っていました。
ですが、既婚者の私が、男性社員と毎日のように二人でランチをしていれば、変な想像をする人が出てくるのは仕方のないことかもしれません。
私は、そこまで考えていませんでした。
「気にしなくていいですからね。言いたい人には言わせておけばいいと思います。だって、僕たち普通にごはん食べながら話しているだけなんですから」
その時、初めて仲本君が怒っている姿を見ました。同じ職場にいても、仲本君が誰かに対して怒っている姿を見たことがありません。
私は申し訳ない気持ちと共に、どこか嬉しく思いました。
でも、職場という場所では、噂が広がるのはあっという間です。何より、仲本君に迷惑をかけたくありません。
もし変な噂が広がって、仕事に影響が出てしまったら…考えるだけで、怖くなりました。
「私の不注意だわ。話聞いてほしくて、何も考えてなかった。だからね…」
少し迷ってから、私は決心しました。
「噂が広がって、勘違いされるのも面倒だから、2人でランチするのは今日で最後にしようか」
自分で言っておきながら、正直寂しい気持ちが大きかったです。
でも、私のわがままにこれ以上仲本君を付き合わせるわけにはいきません。
終わりにするには、少し寂しかった
「今まで話聞いてくれて、ありがとうね」そう言って、私は笑いました。
これで終わり。今日で、仲本君に話を聞いてもらうのは最後。そう思っていました。
ところが…仲本君は、少し考えてから言いました。
「そうですね」
私は、これで本当に終わるのだと思いました。
でも、続いた言葉は違いました。
「どのみち僕もランチだけじゃ話しづらいと思っていたんです。なので、今日からはLINEで話しましょうか」
「えっ」
思わず声が出ました。

今日で終わりだと思っていた私は、驚きを隠せませんでした。
仲本君は、そんな私を楽しそうに見つめながら言いました。
「LINEだったら、職場で話すよりゆっくり話せますし。職場では今まで通りで」
その瞬間、私はほんの少しだけドキッとしました。
LINEなら、会社の外で二人で会う必要もない。
誰かに見られることもない。
職場では、今まで通り。
それなら、いいのかもしれない。
そう思いました。
まさか、この「LINEで話す」という選択が、私たちの距離をもっと近づけることになるなんて。
このときの私は、まだ知りませんでした。
その夜、初めてLINEが届いた
その日の夜、本当に仲本君からLINEが届きました。
画面に表示された名前を見た瞬間。私は思わず笑みがこぼれそうになりました。
メッセージには、「直接話せないのは少し寂しいですが、今日からここでよろしくお願いします」と書かれていました。
嬉しい。
でも、にやにやしながらLINEをしていては、さすがに夫にも娘にも変に思われてしまいます。私は家族にはバレないように平常を保ちながら、しばらくメッセージを見つめていました。

家族が寝静まったあと、私は少しワクワクしている自分を抑えながら、仲本君にLINEを送りました。
たわいもない話。
今日あったこと。
仕事のこと。
夫のこと。
何でもない会話。
送る内容は、本当になんでもない内容でした。
これまでランチで聞いてもらっていた時の延長線上。それだけだったはずなのに。
寝るまでの何通かのLINEのやりとりが、私の毎日の癒しになっていきました。
ある朝、目が覚めたときに、ふと思ったのです。
――今日は、LINE来るかな。
そう思った自分に、少しだけ驚きました。
別に、仲本君と何か特別な関係になりたいわけじゃない。ただ、話を聞いてくれる人ができた。それだけのことだと思っていました。
でも、いつの間にか私は、夫との会話よりも、仲本君から届く一通のLINEを楽しみにするようになっていたのです。
だから、まだこのときの私は知りませんでした。
ただの「話し相手」だと思っていた仲本君が、この先、私の心の中でどんどん大きな存在になっていくことを。
そして、その小さな変化が、私を「婚外恋愛」という、自分には無縁だと思っていた場所へ連れていくことになることを――。











