前回、私は、仲本君とのLINEが、自分にとって欠かせないものになっていることに気づきました。
だから私は、「今ならまだ戻れる」と思い、仲本君にLINEを控えようと伝えました。
それからLINEは来なくなりました。
これで、元の生活に戻れる。
家族との時間に、もう一度目を向けられる。
そう思っていたのです。
でも――現実はそう簡単ではありませんでした。
LINEがなくなって、私はまた寂しくなった
LINEを送り合わなくなって、家族に目を向けられるようになったのだから、これでよかったはずです。
それなのに、職場で仲本君が他の人と楽しそうに話している姿を見るだけで、妙に寂しさを感じました。
話しかけたい。
でも、もう自分からは話しかけられない。
今までなら、仕事が終わったあとにLINEで話せたのに。
そんなことを考えている自分に気づくたび、私は慌てて気持ちを打ち消しました。
「やめるって決めたんだから」そう言い聞かせました。
料理を作りながら、仲本君を思い出した
晩御飯を作っていると、これまで仲本君に料理の写真を送っていたことを思い出しました。
「今日の晩御飯は、これよ」と写真を送ると、仲本君は必ず「今日もおいしそうですね」「鈴木さん、すごいですね」と返してくれました。
何気ないやりとり。
でも、今日は何を作ろう。
写真を撮ったら、どんなふうに送ろう。
そんなことを考える時間が、いつの間にか私の日常になっていました。
でも、今はもう送る相手がいません。
今日の晩御飯は、簡単に作れてお腹が膨れればそれでいい。そんなことだけを考えながら、私は料理を作っていました。
私の頑張りは、誰にも見えていなかった
いつものように家族と食卓を囲んでいると、夫が娘にスマホを向けながら言いました。
「見てみろ、可愛くないか?」
「すごーい。パーティーの写真?」
「これが日常的らしいぞ。会社の同僚の奥さんなんだけどな。料理を作るのが好きらしくて、毎晩、彩りを考えて可愛いご飯を作っているそうだ」
「すごい! 私も食べたーい」
娘が無邪気な顔でこちらを見てきました。
夫はにやにやと意地の悪い顔をしながら、スマホの画面を私に向けてきます。

そこには、パーティーさながらの料理が並んでいました。可愛らしいお皿に、彩りを考えて盛り付けられた料理。
時間をかけて、丁寧に作っていることが伝わってきます。
「まあ、さすがにこれを毎晩はやりすぎだけど、俺もたまにはこういうの食べたいな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がカッと熱くなりました。
本当にこれを毎日作っているのかは分かりません。
でも、こんな手の込んだものは、時間に余裕がある人だから作れるのです。
怒りをぶちまけそうになりました。
でも、目を輝かせて写真を見つめている娘の前で、怒り出すわけにはいきません。
私はぐっとこらえて、「すごいわね」と、言うだけに留めました。
そして娘に、「休みの日にでも、一緒に可愛いご飯作ろうか」と言いました。
娘は嬉しそうに笑いました。娘には何の罪もありません。
ただ、夫が何も考えてくれないことだけが、どうしても許せませんでした。
「どうしてあんなことが言えるの?」
娘が寝静まったあと。私は、夫に怒りをぶつけました。
「私だって、時間があればもっと凝った料理を作れるわよ!忙しい中、料理に洗濯に掃除に、全部やってるのに、どうしてあんなことが言えるの?」
すると夫は、呆れたように言いました。
「やっぱりお前は、文句しか言わないんだな」
その言葉を聞いて、さらに腹が立ちました。
文句を言っているのは、どっちでしょうか。
私だって、好きで手を抜いているわけじゃありません。
家族が困らないように、毎日必死でやっています。
私は言いたいことを全部ぶつけるのをやめ、リビングで一人、頭を冷やすことにしました。
仲本君に聞いてほしい
冷たいお茶を飲みながら、静かなリビングでぼんやりしていました。
怒りは少しずつ静まっていきました。
すると、今度は別の感情が込み上げてきました。
寂しい。
毎日、こんなにも頑張っているのに
料理を作っていることも、
家族のために動いていることも、
誰も褒めてくれません。
「仲本君に聞いてほしい」素直にそう思いました。
でも、すぐにその考えを打ち消しました。
もうLINEは送らない。
そう自分で決めたのだから。
私は何度もスマホを手に取り、そして置きました。
それでも、胸の中の寂しさは消えてくれませんでした。
そして――気づいたときには、私はメッセージを打っていました。
「寂しい」
送信した瞬間、はっとしました。

もうLINEは送らないと、自分で決めたはずなのに。
既読がつく前に、そっと送信取り消しを押しました。
もう無理と思った瞬間
それから少しして、私の誕生日が近づいてきました。もう39歳です。昔ほど、誕生日を楽しみにすることはなくなっていました。
それでも、娘が小さかった頃は違いました。夫が毎年、仕事帰りにケーキを買ってきてくれたのです。
育児に追われて、自分の誕生日のことなんてすっかり忘れていた時も、「せめてこれくらいは」と言って、ケーキを買ってきてくれました。
あの頃は、それが当たり前のように思っていました。
家族でケーキを囲んで、娘と一緒にお祝いしてもらう。そんな何気ない時間が、私は嬉しかったのだと思います。
でも、そんなふうに夫が私の誕生日を祝ってくれたのも、もう何年も前のことです。
ここ数年は、プレゼントはおろか、ケーキを買ってきてもらった記憶さえありません。
今年も、特別なことは何も期待していませんでした。いつもと同じ一日として過ぎていくのだろうと思っていたのです。
ところが、その日の夕食前、娘が「ママ、早く座って」と私を呼びました。
「どうしたの?」そう思っていると、「ママ、お誕生日おめでとう」と言って、可愛らしいブレスレットを渡してくれたのです。

「ありがとう。可愛いね」
「よかった。頑張って作ったの」
「自分で作ったの?すごいわね」
娘の笑顔を見ているだけで、幸せな気持ちになりました。夫が何かをしてくれなくても、娘がいればそれでいい。今年は素敵な誕生日になったと思っていたのですが…。
プレゼントに喜んでいる私を見て、夫があざけるように言いました。
「お前がそんな可愛いのつけても意味ないだろう」
面白そうに、娘からのプレゼントを馬鹿にするような言い方でした。
「娘からのプレゼントってだけで、価値があるの」
そう返すと、夫は悪ぶれた様子もなく、「ていうか、お前今日誕生日だったのか。すっかり忘れてたよ。もうこの年だと、誕生日なんてめでたくもなんともないだろう」と言ってきたのです。
私の存在そのものを否定されたような気がしました。
「ママ、何歳になったの?」無邪気に尋ねる娘に、「39歳になったわよ」と答えました。
「そうなんだー」娘はそう言って、私の腕にブレスレットをつけてくれました。
その横で夫は、「来年には40だな。すっかりおばさんだ。俺も年とったなー」なんて言っています。
私はもう言い返すのも面倒になり、黙っていました。
娘からもらったブレスレットだけが、腕に残っていました。
娘の笑顔だけが、嬉しかった
せっかく祝ってくれている娘の前で、嫌な顔を見せたくありません。だから私は、娘からのプレゼントだけを支えに、必死に笑顔を作りました。
娘からのプレゼントを喜んでいられれば、それだけで幸せな一日として終えられたはずです。
でも、夫の言葉がいつまでも胸に刺さっています。
夕食を終えた後、一人虚しく片付けをしながら、リビングで項垂れていました。
「せめて自分くらい、自分のことをお祝いしてあげよう」そう思い、普段あまり飲まないお酒を開けました。
グラスに注いだお酒を眺めていると、スマホが震えました。
誕生日を覚えていてくれた人
届いたメッセージを見て、私は息を止めました。
仲本君でした。

「今日は誕生日ですよね。おめでとうございます」
普段なら、定型文のお祝いメッセージだと思ったかもしれません。
でも、その日の私にとっては違いました。
誕生日を覚えていてくれた。それだけのことが、猛烈に嬉しかったのです。
「ありがとう」と返そうとして、指が止まりました。
そして私は、また自分でも予想していなかった言葉を打っていました。
「ありがとう。私もう無理かもしれない」
送ってしまった。
そう思う暇もなく、返信が届きました。
「何があったんですか?」
何と返せばいいだろうか?と考えているうちに、スマホが鳴りました。
仲本君からの電話でした。
初めて、電話で本音を話した
どうしたものかと迷いました。もう夜も遅い時間です。
それでも、ここで無視するわけにもいかないと思い、電話に出ました。
「もしもし……」
「すみません。心配でかけてしまいました」
優しい声が聞こえてきただけで、涙が溢れてきました。
私は家族にバレないように、脱衣所へ移動しました。
そして、今日あったことを話しました。
夫に誕生日を忘れられたこと。
娘がプレゼントをくれたこと。
料理のこと。
夫に言われたこと。
途中、何度も嗚咽を上げそうになるのを堪えながら、私はなんとか最後まで話し切りました。

仲本君は、何も言わずに最後まで黙って聞いてくれました。
私が話し終えた後、少しだけ静かな時間が流れました。なんといえばいいのか、言葉を探しているのだと思いました。
ほどなくして、「今から会えませんか?」という言葉が聞こえてきました。小さく、低く、呟くような声でした。
「何を言っているの?」私は涙が引くほど驚きました。
もう夜も遅い時間です。
「ただ顔を見て、話したいだけです。このまま鈴木さんを一人にしたくありません」
その言葉を聞いて、私はもう難しいことを考えられなくなりました。
会ってはいけない。
そう思う気持ちは、確かにありました。
でもそれ以上に、誰かにそばにいてほしい。その気持ちが勝ってしまったのです。
気づいたときには、私は夢中で外に飛び出していました。
夜の街で、仲本君を待った
家を出るとき、何度も後ろを振り返りました。
夫も娘も知らない。
私が今から仲本君に会いに行くことを、誰も知らない。
罪悪感はありました。
それなのに、足は止まりませんでした。
待ち合わせ場所に着くと、しばらくして仲本君がやってきました。
顔を見た瞬間。
電話では我慢できていた涙が、一気に溢れてきました。
「来てくれたんですね」
そう言われても、私は何も言えませんでした。
ただ、涙を流しながら頷くことしかできませんでした。
抱きしめられて、張り詰めていたものがほどけた
仲本君の顔を見た途端、なぜだか涙が止まりませんでした。電話越しには我慢できていたのに、どうしても止められなかったんです。
「もう頑張らなくていいですよ」
仲本君はそう言って、泣き崩れる私を抱きしめてくれました。

その腕の中にいると、張り詰めていたものが全部ほどけていくようでした。
夫婦なのに、ずっと触れ合うこともなくなっていた。
寂しいと言うこともできなかった。
頑張っていることを認めてもらうこともできなかった。
そんな私を、仲本君は何も言わずに抱きしめてくれました。
私はその瞬間、「この人は、私を見てくれている」そう思ってしまったのです。
一線を越えた夜
それからのことは、今でも夢だったのではないかと思う時があります。
ふわふわとした気持ちのまま、私たちは一線を越えてしまいました。
何年ぶりかわかりません。
男性から求められることが、これほど嬉しく感じられるなんて思ってもいませんでした。
その腕の中にいると、私は久しぶりに、自分が一人の女性に戻ったような気がしました。
その時間の中で、私は罪悪感も、家族のことも、何もかも忘れていました。
ただ、目の前にいる仲本君に求められることが嬉しかった。
翌朝、私は現実に引き戻された
翌朝、隣で眠る仲本君の寝顔を見た瞬間、「私は何をしているんだろう」と思いました。
昨夜までの夢のような時間が、一気に遠くなりました。
血の気が引いていくのを感じました。
可愛い娘には言えないことをしてしまった。
夫がいるのに、別の男性と一線を越えてしまった。
私は、不貞行為をしてしまったんだ。
激しい後悔で、頭の中がいっぱいになりました。
もう、元には戻れない。
そう思いました。
そのとき隣から、「おはよう、ございます……」
むにゃむにゃとした、寝起きの可愛い声が聞こえてきました。
私はその声と、眠そうな顔を見た途端、昨日の幸せな時間を思い出しました。
後悔している。なのに、離れたくない。
悪いことをしたと思っている。なのに、昨日の時間をなかったことにしたくない。
この日から、私たちの関係はもう、ただのLINE友達ではなくなりました。
「もう無理」と送った一通のLINEが、私をここまで連れてきてしまったのです。
そして私は、この朝初めて、本当の意味で「婚外恋愛」という言葉を、自分のこととして意識するようになりました。
まさかこの先、こんなにも苦しい思いをすることになるなんて。このときの私は、まだ知りませんでした。











